The SKYLINE Complete Blog by George
■PRINCE
● 世界を抜く
プリンスR380の「速度記録」が本日JAFより公認されました!
6日の記録会で大破したR380は三鷹工場へ運ばれ、トラブルの原因がフロントサスペンションのロワアームのピロボールの破損によるものと判明し、その対策も施され修復、記録会の有効期限ギリギリの14日に再挑戦した結果、[50km]で前回の記録を上回りましたが、13周目にギアボックスからのオイル漏れにより続行を断念、こうして記録挑戦は完全に満足のいく結果とはなりませんでしたが、[50km][50マイル][100km][100マイル][200km][1時間]の6種目で見事「国内記録」を樹立したのです
※[50km][100マイル][200km][1時間]では国際記録をも上回っていましたが、谷田部の
コースがFIA(国際自動車連盟)の公認を取得していない為、「国内記録」としての認定とな
りました。
「特報」としてプリンス自動車が発行した冊子より
6日の記録会で大破したR380は三鷹工場へ運ばれ、トラブルの原因がフロントサスペンションのロワアームのピロボールの破損によるものと判明し、その対策も施され修復、記録会の有効期限ギリギリの14日に再挑戦した結果、[50km]で前回の記録を上回りましたが、13周目にギアボックスからのオイル漏れにより続行を断念、こうして記録挑戦は完全に満足のいく結果とはなりませんでしたが、[50km][50マイル][100km][100マイル][200km][1時間]の6種目で見事「国内記録」を樹立したのです

※[50km][100マイル][200km][1時間]では国際記録をも上回っていましたが、谷田部の
コースがFIA(国際自動車連盟)の公認を取得していない為、「国内記録」としての認定とな
りました。
「特報」としてプリンス自動車が発行した冊子より
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タグ : R380
● PRINCE R380
昨年の日本グランプリの雪辱を晴らそうと、プリンス自動車は我が国初の本格的スポーツプロトタイプカーを開発しました!
PRINCE R380 (R380-Ⅰ)
車体構造はブラバムBT8Aをベースにした鋼管スペースフレームにアルミ合金製のボディを架装。
エンジンは新設計の直列6気筒DOHC4バルブ1996cc、GR8型をミッドに搭載。
サスペンションは欧州のレーシングマシンと同様に前後ダブルウィッシュボーンです。
又、開発の効率も考え、トランスミッションはヒューランド、ブレーキはガーリング、クラッチはボルク&ベック、ダンパーはアームストロング、タイヤはダンロップと、海外の優秀なレース用部品が選択採用されています。
■全長:3930mm
■全幅:1580mm
■全高:1035mm
■ホイールベース:2360mm
■車両重量:620kg
因みにR380のRはレース用、380はプリンスにとって38番目の開発プロジェクトを意味するそうです


本来であれば今年開催の「第3回日本グランプリ」に出
場の予定でしたが、JAF(日本自動車連盟)が開催の
中止を発表したため、その性能を試す場として選ばれた
のが、本日谷田部の自動車高速試験場で開催された
「スピード記録会」です。
昨年完成したばかりの高速周回路は1周約5.5km。
挑戦する記録は、50km、50マイル、100km、100マイ
ル、200km、200マイル、1時間の7種目。
ドライバーには走行実験課員の杉田幸朗氏が選ばれ
ました。
午前10時20分、競技会会長を務める中川良一専務の振り下ろす日章旗を合図にスタートしたR380は、1分22~23秒のペースで周回を重ね、ストレートでは最高255km/hをマーク

最初の目標[50km]をこれまでの国際記録を上回る12分51秒44で通過

平均速度は233.33km/hを記録しました

その後も快調に走行を続け、[50マイル]と[100km]は国際記録を下回ったものの、[100マイル][200km][1時間]では再び国際記録を上回るペースで通過していきました

ところが52周目、残りの[200マイル]を目前にアクシデントが起こりました!
南側のバンク出口付近で左前輪がバースト、コントロールを失ったR380は転倒し大破

記録挑戦はここで打ち切りとなってしまいましたが、ドライバーの杉田氏が軽症であったのが不幸中の幸いでした。
タグ : R380
● プリンスと日産が合併!?
突然のニュースに驚きです!
昨日午後3時から、東京大手町のパレスホテルで、小川秀彦プリンス自動車工業社長と川又克二日産自動車社長による合併覚書きへの調印が行われ、午後5時からは石橋正二郎プリンス自動車工業会長も加わり、両社合併の発表記者会見が行われました。
合併覚書の内容は以下のとおりです。
皆さん、「スカイライン」は“永久に残る”との約束ですのでご安心を
(笑)
昨日午後3時から、東京大手町のパレスホテルで、小川秀彦プリンス自動車工業社長と川又克二日産自動車社長による合併覚書きへの調印が行われ、午後5時からは石橋正二郎プリンス自動車工業会長も加わり、両社合併の発表記者会見が行われました。
合併覚書の内容は以下のとおりです。
1.合併の時期
合併は遅くとも昭和41年末日までに、できるだけ早い時期に行う。
2.合併比率
両社の正味資産、収益状態、株価等を考慮し、両社協議の上、正式手続きを経て決定するが、現在の状況で判断すればほぼ1対2程度であろう。
3.合併委員会
合併に関する細目は、それぞれの代表者による合併委員会(仮称)を設置し、検討の上決定する。
4.合併にあたり配慮する事項
①プリンスの車名並びに車種
プリンスの車名は合併後もこれを継承し、永久に残し、合併会社においても「プリンス」車種の発展を図る。
現在のプリンス車種の生産改良を継続するのはもちろんである。
②合併後の会社においては旧日産系、旧プリンス系の融和を図り、従業員の差別は行わない。
③代理店、協力工場への配慮
代理店、協力工場の商権は尊重し、合併に伴う混乱を生じないよう配慮する。
皆さん、「スカイライン」は“永久に残る”との約束ですのでご安心を

● プリンスの源流 ②電気自動車からガソリン車への転換 「プリンス」誕生
完成した電気自動車は、府中の地に因んで「たま」と命名されました。
![たま[E4S-47]](https://blog-imgs-46-origin.fc2.com/s/i/n/since1957/TAMAs.jpg)
1947(昭和22)年8月12日、日比谷野外音楽堂で開催された“最初の発表展示会”では、展示車5台がすべてプレミア付きで売れたそうです!
最高速度35km/h、一充電走行距離は65kmと、「たま」の性能は他車を大きくリードし、翌年3月25日、大阪で開催された「第1回電気自動車性能試験」では総合成績第1位に輝いたのですが、資材の割り当ても厳しい時代、月産20~30台程度では採算に合わず、東京電気自動車は創立わずか1年にして経営の危機に直面したのです。
資金調達に奔走した外山は、義父で代議士の鈴木里一郎氏を通じて日本タイヤ(ブリヂストンタイヤ)の石橋正二郎氏からの資本参加を得る事となり、1949(昭和24)年2月15日、市ヶ谷に初の販売拠点を開設、会長石橋正二郎、社長鈴木里一郎の経営陣を迎え、東京電気自動車は再スタートを切りました。

11月には三鷹にある正田飛行機の工場施設を買収、府中より工場を移転し月産70台体制を確保。
これを契機に(1949年11月30日)社名も「たま電気自動車」に改めました。

4人乗り「たまジュニアー」、5人乗り「たまセニア」を相次いで発売し、やっと経営も軌道に乗り始めた「たま電気自動車」に、又もや災難が降りかかります。
1950(昭和25)年6月25日、朝鮮戦争勃発
この戦争による特需によって、不況低迷していた日本経済は活気を取り戻しましたが、戦略物資である鉛の価格は急激に高騰、一方ガソリンは米軍から大量に放出された為、電気自動車は完全に息の根を止められたのです。
電気自動車からガソリン車への転換に迫られた「たま電気自動車」は、独自にエンジンの開発経験がない事から、立川飛行機時代に提携先であった中島飛行機の流れをくむ「富士精密工業」にガソリンエンジンの開発を依頼。
トヨタや日産がまだ1000cc以下のエンジンしかなかった時代、『他社を超える為には小型車規格上限のエンジンを作ろう
』という事になり、1951(昭和26)年10月、国産初の1500ccエンジン「FG4A-10型」が完成したのです!

1951(昭和26)年11月26日、たま電気自動車は初のガソリンエンジン車であるトラック[AFTF-Ⅰ型]の完成を契機に社名を「たま自動車」に変更。
翌(昭和27)年2月15日には乗用車[AISH-Ⅰ型]も完成し、車名はこの年の11月に予定されていた皇太子殿下の立太子礼を記念して「プリンス」と命名
3月7日、京橋ブリヂストン社のショールームで発表展示会が開催されました。
![プリンス・セダン[AISH-Ⅰ]](https://blog-imgs-46-origin.fc2.com/s/i/n/since1957/AISH-1s.jpg)
そして、同(昭和27)年11月27日、車名「プリンス」と企業名が同一である方が良いという事から社名を「プリンス自動車工業」に改称したのです。
ここまでをちょっと整理してみましょう。
変わりすぎじゃね?(笑)
話がややこしいのですが、ここで言う「プリンス自動車工業」と昨日社名変更した「プリンス自動車工業」は組織が異なります。
この時点では「プリンス」というクルマを生産販売していた会社が上記流れの「プリンス自動車工業」で、そのエンジンを生産し「プリンス自動車工業」へ納入していた会社が「富士精密工業」という訳です。
その後両社は合併。(1954.4.10)
新会社名は「富士精密工業」となりましたが、「プリンス自動車」の社名が消滅した訳ではありません。
両社は合併にあたり生産体制は勿論の事、販売体制の確立も重要課題となっており、合併直前の1954(昭和29)年2月16日「プリンス自動車販売」を設立、本社登記を「プリンス自動車工業」市ヶ谷営業所としています。

「スカイライン」発表時のパンフレット表紙にもちゃんと両社の名前が載ってましたね

そして昨日、富士精密工業は合併から7年も経って社名を「プリンス自動車工業」へ変更した訳ですが、こんな事なら最初から「プリンス自動車工業」にしておけば良かったのにネ(笑)
![たま[E4S-47]](https://blog-imgs-46-origin.fc2.com/s/i/n/since1957/TAMAs.jpg)
1947(昭和22)年8月12日、日比谷野外音楽堂で開催された“最初の発表展示会”では、展示車5台がすべてプレミア付きで売れたそうです!
最高速度35km/h、一充電走行距離は65kmと、「たま」の性能は他車を大きくリードし、翌年3月25日、大阪で開催された「第1回電気自動車性能試験」では総合成績第1位に輝いたのですが、資材の割り当ても厳しい時代、月産20~30台程度では採算に合わず、東京電気自動車は創立わずか1年にして経営の危機に直面したのです。
資金調達に奔走した外山は、義父で代議士の鈴木里一郎氏を通じて日本タイヤ(ブリヂストンタイヤ)の石橋正二郎氏からの資本参加を得る事となり、1949(昭和24)年2月15日、市ヶ谷に初の販売拠点を開設、会長石橋正二郎、社長鈴木里一郎の経営陣を迎え、東京電気自動車は再スタートを切りました。

11月には三鷹にある正田飛行機の工場施設を買収、府中より工場を移転し月産70台体制を確保。
これを契機に(1949年11月30日)社名も「たま電気自動車」に改めました。

4人乗り「たまジュニアー」、5人乗り「たまセニア」を相次いで発売し、やっと経営も軌道に乗り始めた「たま電気自動車」に、又もや災難が降りかかります。
1950(昭和25)年6月25日、朝鮮戦争勃発

この戦争による特需によって、不況低迷していた日本経済は活気を取り戻しましたが、戦略物資である鉛の価格は急激に高騰、一方ガソリンは米軍から大量に放出された為、電気自動車は完全に息の根を止められたのです。
電気自動車からガソリン車への転換に迫られた「たま電気自動車」は、独自にエンジンの開発経験がない事から、立川飛行機時代に提携先であった中島飛行機の流れをくむ「富士精密工業」にガソリンエンジンの開発を依頼。
トヨタや日産がまだ1000cc以下のエンジンしかなかった時代、『他社を超える為には小型車規格上限のエンジンを作ろう


「富士精密工業」は、太平洋戦争で活躍した戦闘機「零戦」の生産(開発は三菱重工業)や、そのエンジン「栄」を開発した「中島飛行機(昭和20年9月「富士産業」に社名変更)」から戦後GHQの指令により解体分割された12の企業の内「荻窪工場」と「浜松工場」の2事業所が合併して、1950(昭和25)年7月に設立され、主に農業・船舶用のディーゼルエンジン、ミシン、映写機などの製造・販売をしていました。
代表取締役には中島飛行機時代、戦闘機の能力を飛躍的に高めた気化器を開発した新山春雄氏(現・プリンス自工専務)が、又「栄」の主任設計士だった中川良一氏(現・同取締役)が技術部長兼営業部長を務めていました。
1951(昭和26)年11月26日、たま電気自動車は初のガソリンエンジン車であるトラック[AFTF-Ⅰ型]の完成を契機に社名を「たま自動車」に変更。
翌(昭和27)年2月15日には乗用車[AISH-Ⅰ型]も完成し、車名はこの年の11月に予定されていた皇太子殿下の立太子礼を記念して「プリンス」と命名

![プリンス・セダン[AISH-Ⅰ]](https://blog-imgs-46-origin.fc2.com/s/i/n/since1957/AISH-1s.jpg)
そして、同(昭和27)年11月27日、車名「プリンス」と企業名が同一である方が良いという事から社名を「プリンス自動車工業」に改称したのです。
ここまでをちょっと整理してみましょう。
立川飛行機
↓
「東京電気自動車」設立 (1947.6.30) ※実質的創業!
↓
「たま電気自動車」に社名変更 (1949.11.30)
↓
「たま自動車」に社名変更 (1951.11.26)
↓
「プリンス自動車工業」に社名変更 (1952.11.27)
変わりすぎじゃね?(笑)
話がややこしいのですが、ここで言う「プリンス自動車工業」と昨日社名変更した「プリンス自動車工業」は組織が異なります。
この時点では「プリンス」というクルマを生産販売していた会社が上記流れの「プリンス自動車工業」で、そのエンジンを生産し「プリンス自動車工業」へ納入していた会社が「富士精密工業」という訳です。
その後両社は合併。(1954.4.10)
新会社名は「富士精密工業」となりましたが、「プリンス自動車」の社名が消滅した訳ではありません。
両社は合併にあたり生産体制は勿論の事、販売体制の確立も重要課題となっており、合併直前の1954(昭和29)年2月16日「プリンス自動車販売」を設立、本社登記を「プリンス自動車工業」市ヶ谷営業所としています。

「スカイライン」発表時のパンフレット表紙にもちゃんと両社の名前が載ってましたね


そして昨日、富士精密工業は合併から7年も経って社名を「プリンス自動車工業」へ変更した訳ですが、こんな事なら最初から「プリンス自動車工業」にしておけば良かったのにネ(笑)
● プリンスの源流 ①立川飛行機~東京電気自動車設立
本日
富士精密工業は、社名を
プリンス自動車工業へ変更しました!

と言うより、「元の社名に戻しました。」と言った方が正しいかも?
元々「プリンス自動車工業」という社名は、スカイラインの前身である「プリンス」を製造していた「たま自動車」が社名変更したもので、その「プリンス」のエンジン(FG4A)を作った会社が富士精密工業でした。
そして1954(昭和29)年4月、両社は合併。社名を「富士精密工業」としたのでした。
スカイラインが発表される3年前の話です。
ここで、今日までの「プリンス自動車」の歴史を振り返ってみましょう。
“プリンスの源流”を遡ると「立川飛行機」と「中島飛行機」という2つの航空機メーカーに辿り着きます。
「立川飛行機」は石川島造船所が関東大震災後の不況期における企業再建策として1924(大正13)年に石川島飛行機製作所としてとして発足させ、1936(昭和11)年に同社名に変更したもので、主に大型爆撃機を生産していました。

終戦後、軍需法令により航空機生産の一切を禁止された立川飛行機は、工場接収に伴い従業員の大半を解雇
一部残った社員が新たな転換事業として選んだのが「自動車生産」だったのです。
このとき「自動車生産」を強く主張したのが、現在プリンス自販で専務を務める外山保氏(当時は試作工場長)でした。
『飛行機の技術を生かして自動車を造ろう!』
と言っても立川飛行機は機体専用メーカーであったので、独自にエンジンを作る事は出来きません。
同時にガソリンは統制品であった為、民間での入手は非常に困難な時代。。。
そんな中考えついたのが「電気自動車」だったのです
当時立川飛行機の傘下には小型自動車「オオタ」を作った高速機関工業がありました。
そこで外山たちは「オオタ」の生産技術を取り入れながら試作車の開発をスタート!

1946(昭和21)年11月、試作1号車[EOT-46B型]が完成しました
ところがこの直後、いよいよ本格的に商品車の開発が始まろうとしていた正にその時、大問題が発生!
立川飛行機の全工場が米軍に接収されてしまったのです。
もちろん独自の自動車生産など許される筈がありません。
しかし外山は諦めませんでした。
あくまで『自動車を造る』決意を貫き通し、有志200人を引き連れ独立。
府中町にあった「日本小型飛行機」の遊休工場を借り、生産型電気自動車を完成させたのです!

そして1947(昭和22)年6月30日、「東京電気自動車」を設立
これが“プリンス自動車の起源”となる訳です!
このつづきは又明日



と言うより、「元の社名に戻しました。」と言った方が正しいかも?
元々「プリンス自動車工業」という社名は、スカイラインの前身である「プリンス」を製造していた「たま自動車」が社名変更したもので、その「プリンス」のエンジン(FG4A)を作った会社が富士精密工業でした。
そして1954(昭和29)年4月、両社は合併。社名を「富士精密工業」としたのでした。
スカイラインが発表される3年前の話です。
ここで、今日までの「プリンス自動車」の歴史を振り返ってみましょう。
“プリンスの源流”を遡ると「立川飛行機」と「中島飛行機」という2つの航空機メーカーに辿り着きます。
「立川飛行機」は石川島造船所が関東大震災後の不況期における企業再建策として1924(大正13)年に石川島飛行機製作所としてとして発足させ、1936(昭和11)年に同社名に変更したもので、主に大型爆撃機を生産していました。

終戦後、軍需法令により航空機生産の一切を禁止された立川飛行機は、工場接収に伴い従業員の大半を解雇

一部残った社員が新たな転換事業として選んだのが「自動車生産」だったのです。
このとき「自動車生産」を強く主張したのが、現在プリンス自販で専務を務める外山保氏(当時は試作工場長)でした。
『飛行機の技術を生かして自動車を造ろう!』
と言っても立川飛行機は機体専用メーカーであったので、独自にエンジンを作る事は出来きません。
同時にガソリンは統制品であった為、民間での入手は非常に困難な時代。。。
そんな中考えついたのが「電気自動車」だったのです

当時立川飛行機の傘下には小型自動車「オオタ」を作った高速機関工業がありました。
そこで外山たちは「オオタ」の生産技術を取り入れながら試作車の開発をスタート!

1946(昭和21)年11月、試作1号車[EOT-46B型]が完成しました

ところがこの直後、いよいよ本格的に商品車の開発が始まろうとしていた正にその時、大問題が発生!
立川飛行機の全工場が米軍に接収されてしまったのです。
もちろん独自の自動車生産など許される筈がありません。
しかし外山は諦めませんでした。
あくまで『自動車を造る』決意を貫き通し、有志200人を引き連れ独立。
府中町にあった「日本小型飛行機」の遊休工場を借り、生産型電気自動車を完成させたのです!

そして1947(昭和22)年6月30日、「東京電気自動車」を設立

これが“プリンス自動車の起源”となる訳です!
このつづきは又明日

● グロリア発売
昨年9月に発表された「スカイライン1900」が、「グロリア」という車名に変更され発売されました。[BLSIP-1型]

4月に予定されている皇太子明仁親王殿下のご成婚を記念しての事だそうです。

元はと言えば、スカイライン(ALSI型)の前身であった「プリンス(AISH型)」も、皇太子殿下の「立太子礼」を記念して付けられた車名ですし、皇室とは何かとご縁があるようですね。

こちらは昨年10月の「全日本自動車ショウ」でスカイライン1900を興味深くご覧になられる皇太子殿下。

4月に予定されている皇太子明仁親王殿下のご成婚を記念しての事だそうです。

元はと言えば、スカイライン(ALSI型)の前身であった「プリンス(AISH型)」も、皇太子殿下の「立太子礼」を記念して付けられた車名ですし、皇室とは何かとご縁があるようですね。

こちらは昨年10月の「全日本自動車ショウ」でスカイライン1900を興味深くご覧になられる皇太子殿下。