The SKYLINE Complete Blog by George
■1961年02月
● プリンスの源流 ②電気自動車からガソリン車への転換 「プリンス」誕生
完成した電気自動車は、府中の地に因んで「たま」と命名されました。
![たま[E4S-47]](https://blog-imgs-46-origin.fc2.com/s/i/n/since1957/TAMAs.jpg)
1947(昭和22)年8月12日、日比谷野外音楽堂で開催された“最初の発表展示会”では、展示車5台がすべてプレミア付きで売れたそうです!
最高速度35km/h、一充電走行距離は65kmと、「たま」の性能は他車を大きくリードし、翌年3月25日、大阪で開催された「第1回電気自動車性能試験」では総合成績第1位に輝いたのですが、資材の割り当ても厳しい時代、月産20~30台程度では採算に合わず、東京電気自動車は創立わずか1年にして経営の危機に直面したのです。
資金調達に奔走した外山は、義父で代議士の鈴木里一郎氏を通じて日本タイヤ(ブリヂストンタイヤ)の石橋正二郎氏からの資本参加を得る事となり、1949(昭和24)年2月15日、市ヶ谷に初の販売拠点を開設、会長石橋正二郎、社長鈴木里一郎の経営陣を迎え、東京電気自動車は再スタートを切りました。

11月には三鷹にある正田飛行機の工場施設を買収、府中より工場を移転し月産70台体制を確保。
これを契機に(1949年11月30日)社名も「たま電気自動車」に改めました。

4人乗り「たまジュニアー」、5人乗り「たまセニア」を相次いで発売し、やっと経営も軌道に乗り始めた「たま電気自動車」に、又もや災難が降りかかります。
1950(昭和25)年6月25日、朝鮮戦争勃発
この戦争による特需によって、不況低迷していた日本経済は活気を取り戻しましたが、戦略物資である鉛の価格は急激に高騰、一方ガソリンは米軍から大量に放出された為、電気自動車は完全に息の根を止められたのです。
電気自動車からガソリン車への転換に迫られた「たま電気自動車」は、独自にエンジンの開発経験がない事から、立川飛行機時代に提携先であった中島飛行機の流れをくむ「富士精密工業」にガソリンエンジンの開発を依頼。
トヨタや日産がまだ1000cc以下のエンジンしかなかった時代、『他社を超える為には小型車規格上限のエンジンを作ろう
』という事になり、1951(昭和26)年10月、国産初の1500ccエンジン「FG4A-10型」が完成したのです!

1951(昭和26)年11月26日、たま電気自動車は初のガソリンエンジン車であるトラック[AFTF-Ⅰ型]の完成を契機に社名を「たま自動車」に変更。
翌(昭和27)年2月15日には乗用車[AISH-Ⅰ型]も完成し、車名はこの年の11月に予定されていた皇太子殿下の立太子礼を記念して「プリンス」と命名
3月7日、京橋ブリヂストン社のショールームで発表展示会が開催されました。
![プリンス・セダン[AISH-Ⅰ]](https://blog-imgs-46-origin.fc2.com/s/i/n/since1957/AISH-1s.jpg)
そして、同(昭和27)年11月27日、車名「プリンス」と企業名が同一である方が良いという事から社名を「プリンス自動車工業」に改称したのです。
ここまでをちょっと整理してみましょう。
変わりすぎじゃね?(笑)
話がややこしいのですが、ここで言う「プリンス自動車工業」と昨日社名変更した「プリンス自動車工業」は組織が異なります。
この時点では「プリンス」というクルマを生産販売していた会社が上記流れの「プリンス自動車工業」で、そのエンジンを生産し「プリンス自動車工業」へ納入していた会社が「富士精密工業」という訳です。
その後両社は合併。(1954.4.10)
新会社名は「富士精密工業」となりましたが、「プリンス自動車」の社名が消滅した訳ではありません。
両社は合併にあたり生産体制は勿論の事、販売体制の確立も重要課題となっており、合併直前の1954(昭和29)年2月16日「プリンス自動車販売」を設立、本社登記を「プリンス自動車工業」市ヶ谷営業所としています。

「スカイライン」発表時のパンフレット表紙にもちゃんと両社の名前が載ってましたね

そして昨日、富士精密工業は合併から7年も経って社名を「プリンス自動車工業」へ変更した訳ですが、こんな事なら最初から「プリンス自動車工業」にしておけば良かったのにネ(笑)
![たま[E4S-47]](https://blog-imgs-46-origin.fc2.com/s/i/n/since1957/TAMAs.jpg)
1947(昭和22)年8月12日、日比谷野外音楽堂で開催された“最初の発表展示会”では、展示車5台がすべてプレミア付きで売れたそうです!
最高速度35km/h、一充電走行距離は65kmと、「たま」の性能は他車を大きくリードし、翌年3月25日、大阪で開催された「第1回電気自動車性能試験」では総合成績第1位に輝いたのですが、資材の割り当ても厳しい時代、月産20~30台程度では採算に合わず、東京電気自動車は創立わずか1年にして経営の危機に直面したのです。
資金調達に奔走した外山は、義父で代議士の鈴木里一郎氏を通じて日本タイヤ(ブリヂストンタイヤ)の石橋正二郎氏からの資本参加を得る事となり、1949(昭和24)年2月15日、市ヶ谷に初の販売拠点を開設、会長石橋正二郎、社長鈴木里一郎の経営陣を迎え、東京電気自動車は再スタートを切りました。

11月には三鷹にある正田飛行機の工場施設を買収、府中より工場を移転し月産70台体制を確保。
これを契機に(1949年11月30日)社名も「たま電気自動車」に改めました。

4人乗り「たまジュニアー」、5人乗り「たまセニア」を相次いで発売し、やっと経営も軌道に乗り始めた「たま電気自動車」に、又もや災難が降りかかります。
1950(昭和25)年6月25日、朝鮮戦争勃発

この戦争による特需によって、不況低迷していた日本経済は活気を取り戻しましたが、戦略物資である鉛の価格は急激に高騰、一方ガソリンは米軍から大量に放出された為、電気自動車は完全に息の根を止められたのです。
電気自動車からガソリン車への転換に迫られた「たま電気自動車」は、独自にエンジンの開発経験がない事から、立川飛行機時代に提携先であった中島飛行機の流れをくむ「富士精密工業」にガソリンエンジンの開発を依頼。
トヨタや日産がまだ1000cc以下のエンジンしかなかった時代、『他社を超える為には小型車規格上限のエンジンを作ろう


「富士精密工業」は、太平洋戦争で活躍した戦闘機「零戦」の生産(開発は三菱重工業)や、そのエンジン「栄」を開発した「中島飛行機(昭和20年9月「富士産業」に社名変更)」から戦後GHQの指令により解体分割された12の企業の内「荻窪工場」と「浜松工場」の2事業所が合併して、1950(昭和25)年7月に設立され、主に農業・船舶用のディーゼルエンジン、ミシン、映写機などの製造・販売をしていました。
代表取締役には中島飛行機時代、戦闘機の能力を飛躍的に高めた気化器を開発した新山春雄氏(現・プリンス自工専務)が、又「栄」の主任設計士だった中川良一氏(現・同取締役)が技術部長兼営業部長を務めていました。
1951(昭和26)年11月26日、たま電気自動車は初のガソリンエンジン車であるトラック[AFTF-Ⅰ型]の完成を契機に社名を「たま自動車」に変更。
翌(昭和27)年2月15日には乗用車[AISH-Ⅰ型]も完成し、車名はこの年の11月に予定されていた皇太子殿下の立太子礼を記念して「プリンス」と命名

![プリンス・セダン[AISH-Ⅰ]](https://blog-imgs-46-origin.fc2.com/s/i/n/since1957/AISH-1s.jpg)
そして、同(昭和27)年11月27日、車名「プリンス」と企業名が同一である方が良いという事から社名を「プリンス自動車工業」に改称したのです。
ここまでをちょっと整理してみましょう。
立川飛行機
↓
「東京電気自動車」設立 (1947.6.30) ※実質的創業!
↓
「たま電気自動車」に社名変更 (1949.11.30)
↓
「たま自動車」に社名変更 (1951.11.26)
↓
「プリンス自動車工業」に社名変更 (1952.11.27)
変わりすぎじゃね?(笑)
話がややこしいのですが、ここで言う「プリンス自動車工業」と昨日社名変更した「プリンス自動車工業」は組織が異なります。
この時点では「プリンス」というクルマを生産販売していた会社が上記流れの「プリンス自動車工業」で、そのエンジンを生産し「プリンス自動車工業」へ納入していた会社が「富士精密工業」という訳です。
その後両社は合併。(1954.4.10)
新会社名は「富士精密工業」となりましたが、「プリンス自動車」の社名が消滅した訳ではありません。
両社は合併にあたり生産体制は勿論の事、販売体制の確立も重要課題となっており、合併直前の1954(昭和29)年2月16日「プリンス自動車販売」を設立、本社登記を「プリンス自動車工業」市ヶ谷営業所としています。

「スカイライン」発表時のパンフレット表紙にもちゃんと両社の名前が載ってましたね


そして昨日、富士精密工業は合併から7年も経って社名を「プリンス自動車工業」へ変更した訳ですが、こんな事なら最初から「プリンス自動車工業」にしておけば良かったのにネ(笑)
スポンサーサイト